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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

書く女 4

 それは、榊原敬史にとって、期待していた誘いだった。
 榊原は、入行した頃から中野蓉子が好きだった。
 銀行は、就職活動をしていたとき予想していた以上に厳しいところであった。
 ノルマはきつい。行員も、地方銀行とはいえ、その地方では金融業界のエリートであると自負(もしくは勘違い)している人が多いせいか、または金を扱う仕事のせいか、性格がきつい。ノルマがこなせなければ、人間扱いされない。仕事のできる先輩は、「俺が稼いできた金だ」という意識があるから、ノルマのこなせない人間は給料泥棒扱いである。
 仕事ができる人間でも、目の前でやりとりされる多額の数字に目が眩んで使い込みをし、懲戒免職になる者もいる。他人の貴重なトラの子を扱うプレッシャーのあまり、精神に変調をきたす者もいる。榊原にとって、職場は毎日が戦場なのであった。
 そんな戦場で、蓉子はまさにナイチンゲールだった。彼女は仕事ができるが、決して他人を見下すようなことは言わなかった。
 入行当時は、業務課に配属されて銀行業務を一から叩き込まれていた。毎日何かしら失敗を繰り返していた。それでも蓉子は、優しく、ときに厳しく、榊原の指導を続けていた。
 課長に叱られて落ち込んだ日には、飲みに連れ出して愚痴を聞いてくれた。ノルマがこなせなくて困っていたときは、普通預金残高の多い顧客をリストアップして、勧誘してみるように勧めてくれた。
 自信をなくし、銀行を辞めようかと思いつめていた榊原を、一人前の社会人にしてくれたのは、蓉子だった。蓉子を先輩としてではなく、一人の女性として意識するようになるのに、時間はかからなかった。
 やがて配置換えで所属する課は変わったが、彼女と対等になりたい、彼女に認められるような男になりたいと頑張ってきた結果、榊原は周囲も一目置く仕事のできる男になっていた。
 今度の人事異動では、本店に栄転するという内示が出ている。
 そろそろ蓉子に、自分を男として見てくれるのか、確かめなければならなかった。
 その決意を固めていたときに、蓉子からの誘いの電話がきたのである。

 2DKのアパートで、榊原はネクタイを締めなおしていた。ちょうど帰りついて、着替えようとしていたときに電話が来たのだ。私服に替えるよりも、このままのスーツ姿のほうがいいだろう。今日のように、真面目な話をするつもりのときは。
 銀行には独身寮もあるのだが、榊原は学生時代からのこの古いアパートの二階に住み続けていた。このアパートは、彼の祖父の持ち物で、家賃もほとんどただのようなものだった。だが、本店に転勤になれば、ここも引っ越さなければならない。
 そのとき、インターホンが鳴った。
「はい」
「あたし」
「おう、開いてるぞ。入れよ」
 ドアを開け、サンダルを脱いで入り込んできたのは、隣の部屋に住んでいる小学六年生の有紗(ありさ)だった。彼女は、榊原の従妹である。
「無用心だね。あたしが強盗だったら、どうするのよ」
「平気平気。盗られる物ねーしよ」
 そう言いながら、榊原はあわただしくスーツの袖に腕を通した。
「出かけるの?」
「おう。ちょっと先輩に呼び出されちまってよ」
「えー。せっかく聖剣の続きやろうと思ったのに」
「悪い。ソフト貸してやるから、自分ちでやれよ」
「……一人じゃつまんないもん」
 有紗の母、つまり榊原の叔母は、三年前に離婚していた。看護士をしているので、夜遅い日もあった。そんな夜は、有紗は榊原の部屋で過ごすのが常だった。
 榊原は、有紗の髪をくしゃっと撫ぜた。
「明日は休みだから、一日中つきあうよ。今夜は、我慢して自分の部屋でやってれ」
「絶対、明日は一緒だよ」
「ああ、約束すっから」
 榊原は、ジェルをつけて髪を撫で付けた。
「もしかして、先輩って女?」
 クッションを抱え込んで、有紗は唇を尖らせた。ミニスカートからすらりと伸びた足であぐらをかいていて、今のところは女らしさのかけらもない。
「ああ。よくわかるな」
 自分の髪を整えるのに一生懸命な榊原は、有紗の表情には気づいていなかった。
「ま、そういうことだから、今夜はおとなしく自分ちにいろ。叔母さん、遅いのか?」
「うん」
「そっか。しっかり鍵かけてろよ」
「大丈夫。うちも盗られる物ないし」
「バーカ。有紗に何かあったらたいへんだろうが」
 榊原は、有紗の額を指でちょんとつついた。ずいぶん背がのびたな、と思う。もう何年かすれば体つきも丸みを帯び、叔母さんの心配事も増えるだろう。まだ子供っぽい今でさえ、きれいな顔立ちは将来美人と呼ばれることを予感させる。
 だが今の榊原は、将来の美人よりも憧れのナイチンゲールのほうに心を奪われているのだった。
「さあ、出るぞ。サンダルはけ」
 榊原は、有紗を部屋の前まで送り鍵のかかる音を確かめると、錆びた外階段を駆け降りた。
(俺がここを引っ越したら、有紗は夜どうするんだろう……)
 しっかりしているとはいえ、まだ小学生だ。夜遅くまで一人でいるのは好ましいことではない。叔母が再婚して昼間だけの仕事になれば問題解決だと思うのだが、榊原の母は再婚には反対している。彼女によれば、難しい年頃の娘がいるのに血のつながらない男と一緒に住むのは危険なのだそうだ。
(おふくろは、ドラマの見すぎだよな)
 もっとも、肝心の叔母には再婚の予定などないのだが。
 そのときタクシーの空車が通りかかったので、榊原は手を上げた。
 白いカバーの後部座席に体を沈めながら、榊原は従妹の家族問題はひとまず置いといて、自分の将来の家族を持つための問題に集中することにした。



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